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9年前の心のトゲ

東日本大震災から9年。
僕は9年前、東京の農業系出版社で働いていて、ビルの4階であの瞬間を迎えた。
ゆったりと長いストロークの横揺れが時間をかけて繰り返すたびに、書棚の上のものや中のものがざざーっと崩れ落ちた。

9年経ってようやく人に話せることが2つある。
1つは震災前に原稿をお願いしていた農家に、震災後電話をかけた時のこと。
僕と同い年くらいのイチゴ農家だ。電話で彼は、娘さんと奥さんと、波にさらわれたと、疲れ切った声で語った。
僕は電話の最後に、あろうことか「原稿はどうですか」と聞いたことを覚えている。
彼は、返事に困った。当たり前だ。僕はすぐに「いいんです。いいんです」などと繕ったと思う。

もう1つは震災の年の暮れに、編集部で忘年会をしたときのことだ。
1年を振り返り、順番に感想を述べていくのが、この忘年会の恒例となっていた。
なぜかトップバッターを指名され、僕が話したことは他愛ないものだった。
今年、自分がかかわった記事でうまくできたと思う取材記事の話。
トップがそんな調子だったから、後続も自分たちの仕事の話が多かった。
中に1人だけ震災のことや被災農家について触れ、思いを語った先輩がいたが、多くはそうではなかった。
最後にデスクが「今年、震災のこと、東北のこと、被災農家のことに触れずに、自分の仕事の出来についてしか話すことがないなんて、こんなもんか、この編集部は」と嘆きの言葉を吐いた。僕の酔いは一気にさめ、心が痛かった。

今では恥ずかしいのだが、実際、当時の僕はサイテーのやつだった。
震災のことより、農家のことより、自分の仕事のことで頭がいっぱいだったということだ。
仕事がちゃんとできるかどうか、いつもそのことで頭がいっぱいだった。
都会のビルの一室で原稿に向かいながら、プレッシャーとエゴのはざまで、自分のことで精いっぱいだった。

その約半年後、僕は新潟の山間地に移り住む。農家になるためだ。
仕事から逃げ、しょせんは自己実現のための移住だったのかもしれない。
ただ、自分を変えたいと思っていたことは確かだ。

移住して8年がたち、最近、テレビや新聞、SNSなどで全国いろいろな地域で踏ん張る人、頑張る人を知るたびに涙がこぼれるようになった。
NHKで日曜の早朝にやっている「目撃ニッポン」というドキュメンタリーを好きでよく観る。
自分の関わっているテーマとは違うのに、地方で踏ん張る人の姿に涙がこぼれる。
これを共感と呼んでいいのなら、エゴイスティックな僕は少しは共感できる人間になれたのかもしれない。
希望を捨てず、笑顔を絶やさず、他人にやさしい村人に囲まれて、僕は変われたのだろうか。

僕達が当たり前だと思っていた暮らしのせいで、原子力発電所は増え続け、とうとう事故を起こした。
フクイチから出続ける汚染水のタンクが限界だから、海や空に放出するのが「現実的」だと国は言う。
その時点での「現実的」選択が正解というなら、責任はうやむやのまま、戦争も原発事故も許され、繰り返されることになる。
やがてみんなの意識や記憶から置き去りになっていくだけではないか。
「福島だけの問題にされていないか」
とNHKのアナウンサーが訴えていた。
今でもボランティアや支援活動を続けている人たちには、本当に頭が下がる。
だからといって、直接的になにかをできていない自分を責めることはない。
大切なことは、いつまでも記憶し、振り返り、痛みも苦しみも喜びも、可能な限り共感し続けることではないかと思う。
結局「復興」なんてものは形のない目標にすぎない。
どうなれば本当の復興なのか、誰も教えてくれない。
だから共感し続けることでしか、救われないんじゃないのか。

ずっと心に刺さっていたトゲ。
自分の嫌な心、恥ずかしい心が、今ようやく吐き出せるようになった。
9年かかった。
自分の暮らしをつくりながら、
共感できる人に、
もっともっとなりたいと思っている。
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2020-03-11 22:18 : 思索ノート : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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プロフィール

鴫谷幸彦

Author:鴫谷幸彦
青年海外協力隊、農業系出版社など経て、新潟県上越市吉川区の山村に移住。2年間の研修ののち2014年春に就農しました。

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